すでに愛されているから大丈夫!! アラフィフ牧師の独り言

人間関係のことや、ものの考え方、マインドセットについて

言葉の力

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」
ヨハネ福音書1章1節

 

■はじめに
ヨハネ福音書は、新約聖書の中でも独特の始まりを持っています。1章1節は「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」と記されています。これは、創造の始まり、すべての始まりを指し示しています。

■言葉の力
この節は「言葉」という概念に深い意味を与えます。言葉は単なるコミュニケーションの道具ではなく、創造と存在の根源です。言葉を通して神は世界を創造し、言葉を通して神は自己を示し、言葉を通して神は私たちと関わります。

■神との関係
「言葉は神であった」という部分は、私たちが神との関係をどのように理解すべきかを示しています。神は遠く離れた存在ではなく、私たちの日常に深く関わる方です。言葉という形で私たちの世界に存在し、私たちとの関わりを求めています。

■キリストの存在
ヨハネ福音書は、イエス・キリストがこの「言葉」であると示しています。神はイエス・キリストを通して私たちと直接的な関わりを持ち、私たちに神の愛と救いの手を差し伸べています。

■応答としての信仰
この聖句は、私たちが日々の生活の中で言葉の重要性を理解し、言葉を通じて神との関係を深めることを促します。言葉を通じて神の愛を受け入れ、信仰を深めることで、神との関係がより豊かになります。

■現代への適用
私たちの日常生活においても、言葉は重要な役割を果たします。どのように言葉を使い、どのようにコミュニケーションを取るかは、私たちの人間関係や社会生活に大きな影響を与えます。神の言葉に耳を傾け、その教えに従って生きることで、私たちの生活はより意味深く、充実したものになります。

■結論
ヨハネ福音書1章1節は、私たちの信仰生活と日常生活の両方において、言葉の力と意味を理解し、それを生かすことの重要性を教えています。言葉を通じて神と深い関わりを持ち、その導きに従うことで、私たちの人生は豊かで意味のあるものとなるでしょう。

久しぶりに書きます。

 

まだ、街を歩いている人の多くは、マスクをしていますね。

厚生労働大臣も、もう外ではマスクをしなくてもいいと言っているのですが、なかなか外せないのは外せないのは、もう心理的な問題なのでしょう。

 

かくいう私も、外出の時には、マスクを用意します。店に入る時に必要なことがあるからです。

でも、飲食店であっても食べる時は、マスクを外しているのだから、ほぼ意味はないと思っています。

 

いつまで、この状態が続くのでしょう。

 

 

 

 

 

 

躾けか虐待か

躾けと称して、子どもを虐待する事件が跡を絶ちません。

 

東京都目黒区のアパートで三月、

父親に殴られた後に死亡した瀬戸結愛ちゃん(5つ)は、

覚えたての平仮名で両親に許しを請う文章をノートに綴っていた。

「もうパパとママにいわれなくても
しっかりと じぶんから
きょうよりかもっともっと
あしたはできるようにするから
もうおねがい
ゆるして ゆるしてください
おねがします
ほんとうにもうおなじことしません
ゆるして」

(6月7日東京新聞1面より)

この記事を読んだとき、あなたはどのような気持ちになったでしょうか。

このいたいけな少女が、あまりにもかわいそうだという気持ち。

そして、この両親への怒りでしょうか?

 

でも、すこし立ち止まって、自分のこととして、この問題を考えてみてほしいのです。

彼女が書き残した言葉は「ゆるして」でした。

ゆるしてほしかったのです。責めないでほしかったのです。

 

わたしたちは、なんと、人を責めてばかりいるのでしょう。

その人のためといいながら、責めて、追い詰めてしまうのでしょう。

 

夫婦はお互いを

先輩は後輩を

先生は生徒を、

上司は部下を、

 

なぜ、責めつづけ、追い詰めてしまうのでしょう。

 

甘やかすと、ろくな人間にならない、からですか?

叱らないと、わからないからですか?

体で覚えさせないと、わからないと、叩くのがしつけですか?

 

それは単なる、「弱い者いじめ」「パワハラ」とどこが違うのでしょう?

 

そこに「愛」がなければ、意味がないのではないでしょうか?

 

そして「愛」とは、

 

相手を自分の思い通りにすることでも、

 

自分のために相手から搾取することでもなくて、

 

相手のために、自分を捧げることが、「愛」ではないでしょうか。

 

具体的には、相手のために、自分が損を引き受けるということ。

 

たとえ、相手が自分の思い通りにならなくても、

 

自分の自由を阻害したり、不利益をもたらすことがあっても、

 

「ゆるし」、受け入れようとする、勇気。

 

つまり、そもそも「躾け」ならよくて、「虐待」はいけないという話ではなく、

 

この「愛」の勇気のない、

 

しつけも、教育も、指導も

 

あらゆる批判も

 

この子を死に追いやった暴力と、

本質的には、なにもかわらないのではないでしょうか?

 

この「愛」という勇気のないままに、

「自分が損をしたくない」「自分が嫌な思いをしたくない」という、

そういう心の動機に支配されて、

言葉により、行いにより、

私もたくさんの暴力を振るってきた当事者ではないかと、

気づくことからしか、なにも変わっていかないと思うのです。

自分は、本当にやりたい仕事をやっているのかが、どうしたらわかるのでしょう?

 

Myriams-Fotos / Pixabay


人は、自分が本当に好きなこと、やりたいことをする時に、一番その人の能力を発揮できるようにできています。

 

ゲームが好きな子は、頑張らなくても一日中ゲームをしつづけて、上手になっていくでしょう。

反対に、「自分は頑張ってやったのだ」と思うことは、本当にその人がやりたかったことではないので、

頑張ったわりには、成果も上がらないものです。

小さい頃のアインシュタインは、学校の勉強があまりできなかったようですが、

彼が偉大な科学者となったのは、好きな分野の研究に没頭したからですね。

どのような分野でも、その道の第一人者は、それをやりたいからやりつづけていたら、

それによって生活をするようになってしまったわけです。

さて、今している仕事は、本当にやりたい仕事、すきなしごとですか。

仕事は、いやでもなんでも、生活のためにする、ということもあるでしょう。

でも、一度しかない人生ですから、自分がやりたいことを仕事にしたいものです。

自分に向いているからといっって、それがやりたい仕事とは限りません。

私は音楽が得意でしたから、昔10年ほど音楽関係の仕事をしていたことがありました。

確かにわたしにとって、音楽の仕事は向いていたのかもしれません。

しかし、やがて音楽の仕事はやめました。ほんとうにやりたいことではなかったからです。

向いていても、それが今、本当にやりたいことなのか、ということは別の話です。

むしろ、向いていたり、そのためのスキルを身につけてしまうと、

やりたくないのに、その仕事を頑張ってしつづけてしまうことになります。

本当に、今、その仕事を心からしたいと思っているのか。

それは大切な問題です。

本当にそれがしたいのか、

それとも、それが向いているから、やっているだけなのか。

どうしたら、その仕事を心からしたいと思っているのかを、知ることができるのでしょう。

それを知る方法は

「見返りをもとめるか、もとめないか」で、わかります。

その仕事を「見返りをもとめなくてもする」なら、それは、ほんとうにその人がしたいことです。

その「見返り」とは、現代では「お金」「収入」であったり、「評価」「名声」であるかもしれません。

つまり、そういうものを手に入れるために、しているのなら、その仕事そのものを、心からしたいとは思っていないことになるからです。

言い方を変えて、質問にしてみましょう。

もし、生活のためのお金に困っていなくても、その仕事をあなたは続けますか?

だれからも評価されなくても、褒められなくても、その仕事をあなたは続けますか?

もしそうするのなら、その仕事は、あなたが本当にしたいこと、好きなことにちがいありません。

そういう仕事に出会えた人は、幸いです。

これは理想論に聞こえるかもしれません。

でもよく考えてみてほしいのです。

たとえば医者が、医者など本当はしたくないのに、お金のために、頑張ってしているとしたら、

そういう医者に、あなたは自分の命を預けますか。

もし、学校の先生が、お金のために、したくもない先生をしているのだとしたら、

そういう先生に、教えられる子どもは、かわいそうではないでしょうか。

なによりも、したくもないことをし続けている本人にとっても、

不幸なことではないでしょうか。

自分が、本当にやりたいことを仕事にする。

それは、本人にとっても、周りの人にとっても、

社会にとっても、実は、とても大切なことなのです。

マインドセット3つ

人に対して、わかってほしいと願う人ほど不幸になります

http://xn--w8jzd3c601rm66a.com/archives/593

 

心の病に安易に薬を飲んではいけない

http://xn--w8jzd3c601rm66a.com/archives/588

 

奇跡を体験する祈りとは

http://xn--w8jzd3c601rm66a.com/archives/599

株とか仮想通貨の暴落で、お金を失ってもう生きられないと思っている人に

 

投稿日:

Mediamodifier / Pixabay

お金を儲けようと、仮想通貨や株に投資していたお金を

暴落によってすべて失ってしまったとします。

そのとき、人はお金を失ってしまった喪失感と、これからの生活への不安と恐れに、

心がすっかり萎えてしまうでしょう。

 

「あの時、こうしておけばよかった」という過去に対する後悔と、

「あのお金が必要だったのに」という、失ったものへの執着心

「これからどうすればいいのか」という、未来への恐れ。

 

このようなネガティブな感情が、いっぺんに心のなかを駆け巡り、

ぐるぐると同じことを考え続け、

そして、考えれば考えるほど、否定的な考えが心のなかにいっぱいになっていくでしょう。

 

「なかったことにならないのか」と、どうにもならないことを、考え続けてしまうこともあるでしょう。

 

これはある意味、交通事故にあったときのショックに似ているかもしれません。

 

急な状況の変化に、まずは心がついていっていない状態です。

 

大金を持っていたのに、一瞬にしてなくなてしまったという、急激な変化に、心が対応できないのです。

 

状況を受け止めて、そこからまた出発するために、感情が落ち着くためには、時間が必要です。

 

否定的な感情にとらわれてしまっているときは、否定的な決断をしてしまいますから、とにかく慌てないように、心を落ち着けることです。

 

そもそも、人間はなにももたずにこの世に生まれてきたのです。

 

ただ、その状態に戻っただけなのです。

 

否定的な感情に心が縛られて、否定的な行動をしなくてもいいのです。

「まあ、こんなこともある」

「なんとかなるさ」

「自分ひとりだけじゃないさ」

と、軽く考えましょう。

 

お金は、またいくらでも手に入れることができます。

命は失ったら、もう戻りません。

 

話を聞いてくれる人がいるなら、聞いてもらいましょう。

 

解決しなくても、話すだけで心は軽くなります。

 

大切なのは、実は「お金」があるとか、ないとかではなくて、

 

「こうありたい」「こうあってほしい」という

 

自分自身のこだわりと、現実のギャップが、

 

自分の心を苦しめているということなのです。

 

マイナスの出来事は、実は、

 

自分自身のこだわりを手放して、心の自由を知るためのチャンスなのです。

 

「生きていればいいじゃないか」

「なにも持たずに、生まれてきたのだから」

 

心のこだわりを手放しましょう。

 

大丈夫です。なんとかなります。

 

「神は人に耐えられないほどの試練は与えない。むしろ試練とともに逃れる道を備えてくださっている」聖書の言葉

小さな子どもがいる母子家庭への生活保護費が減額に

2018年度の生活保護費の見直しで、約15万に上る子育て世帯のうち4割近くが減額になる見通し、というニュースがありました。

 

具体的にはひとり親世帯に支給される「母子加算」が4000円ほど減額されている点が指摘されています。

 

一方で子育て世帯に支給する児童養育加算は、対象が現行の「中学生まで(月1万円)」から「高校生まで(月1万円)」に拡大しています。

 

また、学習支援費は小学生は半額になりますが、高校生は年額6万2000円から8万3000円に引き上げられています。

 

なので、受給費全体では、6割の子育て世代で増額となるそうです。

 

この子育て世帯への生活保護費見直しの案、全体から感じることは、教育費がそれほどかからない小学生までの受給額を下げ、その分を、高校生がいる子育て世帯への受給に回している印象です。

 

確かに教育費の観点から考える時、一見合理的な見直しにみえます。

 

ただ、一番手がかかる小さな子を、片親で育てなければならないので、「生活保護」を必要としている世帯への支給を減らすことは

 

生活保護」の理念からすると、逆行しているようにも思うのですが、いかがでしょうか。