ユーモアーの力はすごいのだ
「死生学」の専門家が語るユーモアーの勧め
ドイツ人で、かつて上智大学で「死生学」をお教えておられた、アルフォンス・デーケン先生の「よく生き よく笑い よき死と出会う」という本のなかで、先生は「死とユーモアーはとても深い関係があります。」といっています。
そんな先生の、「死生学」の研究の中で、特に死とユーモアーについて考えさせられた実例を、一つ上げておられたので、紹介します。
ニューヨークにいる、先生の友人のお母さんの最後の時の話です。彼女は最後の時を、悲劇ではなく、一つの心温まるコメディにしたのです。彼女は91歳でした。あと余命は3時間くらいでしょうと、医師につげられて、子どもたちや孫たちが集まった時、お母さんは、昏睡状態のように見えたので、カトリックの神父をしていた長男が、「残念ながら、もうお母さんと話すことはできないけれど、みんなで祈りましょう」といって、全員でミサをあげて祈ったあと、突然、お母さんは目を開いて、
「私のために祈ってくれてありがとう。ところでウイスキーを一杯飲みたいのだけれど」と言ったので、みんなびっくりしました。
子どもの1人が、急いでグラスにウイスキーを入れて持ってくると、一口飲んだ母親は、
「ぬるいから、少し氷を入れてちょうだい」と言ったのです。
あと二時間くらいしか持たないだろうという人が、氷の心配までするので、皆ショックを受けました。
あわてて氷を探してきて入れると、母親は「おいしいわ」と言って、全部飲んでしまいました。
そして次に、「煙草が吸いたいわ」と言いだしたのです。
とうとうたまりかねた長男が勇気をだして、
「医者が煙草はいけないと言っていますよ」と言いますと、母親の返事は、
「死ぬのは医者ではなくて、私ですよ。煙草を頂戴」でした。
そして、悠々と煙草を吸い終わると、皆に感謝して、「天国でまた会いましょう。バイバイ」と言って横になり、そのまま息を引き取りました。
その時、悲しんだ子供は1人もいませんでした。もちろん母親の死は悲しいのですが、その死の際のユーモラスな明るさを思いだして、いかにもお母さんらしい死に方だと、口ぐちにいって笑いました。
この母親は、生涯、ウイスキーやタバコをほとんど口にしませんでした。ですから、死ぬ間際になって、どうしても飲みたかったわけではなかったのです。彼女はそれまでに、何度も親せきや友達の葬式に出て、皆が涙を流して悲しむのを見て来ました。それで、自分の死によって子どもたちや孫たちを悲しませるのではなく、明るい雰囲気のコメディーを残そうとしたのでしょう。
人生の最後の3時間に、子ども達、孫たちに生涯忘れられない貴重なプレゼントを遺したのです、とディーケン先生は書いていました。
ドイツで有名なユーモアーの定義は、「ユーモアーとは「にもかかわらず」笑うことである」なのだそうです。
苦しみの中で、しかし、にも関わらず、相手への思いやりとして、笑顔を示す。こういう深みのあるユーモアーは、素敵だなと思います。
最後まで、だれかのために、生きることができたら、素晴らしいことですし、限りある人生を充実したものにしてくれるのだなと、思います。
日々ユーモアーを大切に
ユーモアーついでに、ドイツ人のディーケン先生は、日本に来た頃は、日本語が全く分からず、友人のアメリカ人に、とにかくにこにこして、時々うなずいて、たまに「そうですね」と言っておけば大丈夫だといわれたのだそうです。それを暗記し、ある家に食事に招待された時、食べ終わり、家の奥さんが「おそまつさまでした」といったので、にこにことうなずいて「そうですね」といってしまったのだとか。
また、友人の外国人が、銀座からバスに乗って運転手に「四谷についたら、私を降ろしてください」と言おうとして、「四谷についたら、私を殺してください」と言ってしまい、運転手はその通りにしなかったので、彼は今も生きているとか。
そんな「失敗を笑い飛ばす」こと。それは自分自身も、そして周りの人たちも、ストレスをやわらげ、お互いの関係が豊かになり、心が自由になり、いっそうの人格成長をもたらしてくれますと書かれており、これは真面目な日本人に必要なポイントだと思いました。
聖書のなかでもイエスキリストは、「針の穴をラクダは通らないだろう」とか「目の中に丸太がはいっているじゃないか」とか、ユーモアーを交えて御言葉を語られました。
高齢になると、出来ることが少なくなり、苦しみや悲しみばかりが増えて、あとは死を待つばかりと、うつむいてしまいがちです。
しかしそうではなくて、ユーモアーを大切に、最後まで周りの人に喜びを分かち合って生きていけるなら、それは素晴らしいことではないでしょうか。
60円で睡眠不足解消なら安いかも
日本の教育の根本的問題点
画一的な教育制度のもとで、自由や責任よりも平等性に価値を置くのがこの日本。
不安と恐怖の違いって
不安と恐怖は、違います。
恐怖は原因がはっきりしていることです。
不安は原因がはっきりしていないものをいいます。
恐怖は、たとえば山で熊に遭遇したときに感じる恐れのことです。
自分がなにを恐れているのか、その原因ははっきりしています。
なので、その恐れから逃れようと必死に行動を始めます。
具体的には逃げるということをするでしょう。
つまり恐怖は、原因がはっきりしているので、そこから逃れるための具体的な行動を取りやすいのです。
会社が倒産したら、会社員は生活できない恐れがはっきりしたので、具体的に他の仕事を探すでしょう。
恐怖は、具体的な行動を生み出して、恐れを乗り越えさせようとするので、そのストレスに耐えやすいと言われます。
しかし不安は、原因がはっきりしていない恐れなので、ストレス状態がずっと続き、心や体が病んでしまう可能性があるのです。
不安を感じているのなら、その不安の原因を探る必要があります。
何に不安を感じているのか。仕事のこと、人間関係のこと、健康のこと。
具体的に不安を感じている理由を、紙に書き出して明確にすることが大切です。
原因が明確になったなら、具体的な行動や対処をし始めるからです。
たとえば、会社につとめているけれども、なんとなくこのまま働いていけるのか、不安を感じているとするなら、その不安を感じている原因はなんなのかを、紙に書いてみましょう。
そして、今から自分にできることを、取り組んでいくのです。
不安な状態とは、実は問題に向き合うことから逃げているのかもしれません。
でも、人は問題に向き合わないまま、不安でいるストレスよりも、むしろ問題に向き合って乗り越えていくストレスのほうが、耐えやすいのです。
クマに遭遇したら、グズグズしていないで逃げるのです。
クマがいるのに、見ないふりをしていたら、大変なことになります。
大丈夫。向き合ったなら、力がでてくるものなのです。
右耳で聴くか、左耳で聴くか
携帯電話をどちらの耳でききますか。
ある説によると、
仕事の話は右で聞き、家族と話すときは左に持ち替えることはないですか。
仕事の話は、論理を処理する左脳。家族の話はイメージを処理する右脳に、
送り込むのだそうですよ。
ちょっと意識してみよう。
男の子の育て方
わたしは男だから、当然女の子より、男の子の心理のほうがよく分かるわけです。
うちは、中学生と小学生の息子がいるけれど、妻が息子たちを怒っているときに、「ああ、あの怒り方はまずいなあ」と思うことがあるんですよ。
一般的に、女の子よりも男の子のほうが成長が早いし、身の回りのことを自分でちゃんとできる年齢は、女の子のほうが早いですよね。
だから、女性である妻から見ると、男の子が身の回りの整理が下手だったり、だらしなかったりするのが、耐えられないみたいなんですね。
なんども「片付けなさい」とか、注意しているうちに、言葉がきつくなっていくわけです。
男の子にとっては「片付けない」ことは「悪」ではないけれど、お母さんには「悪」なんだろうね。
だから男の子にしてみれば「どうしてそんなに怒るの」「大したことないのに」という気持ちになるし、
この辺の意識がすれ違いが、男の子のふてくされた態度になって、ますますお母さんの言葉がキツくなったりする、悪循環にハマるわけです。
男の子って実は単純なんだよね。うまく褒めてあげれば、自分から片付けたりするんですよ。
「最近、部屋がきれいになったんじゃない」
「すごいね。いつもありがとう」
男の子は、そんなお母さんの褒め言葉を食べて、心を大きくしていくんですよ。
2017年イチオシの映画
はてなブログのお題で、2017年のイチオシの作品ということだけど、
ちょっとシリアスなところで、今も上映中の「否定と肯定」という映画を推しておきましょう。
これは実話に基づいた歴史映画なんですね。
1994年、アメリカのジョージア州アトランタにあるエモリ―大学でユダヤ人女性の歴史学者デボラ・E・リップシュタットがホロコーストに関する講義を行なっていました。
そこに乗り込んできたホロコースト否定論者のデヴィッド・アーヴィングが、「ユダヤ人を殺せというヒトラーの命令書はない、だからヒトラーはホロコーストを命じていない」と言い放ち、証拠となる文書を見つけた者には1000ドル出すと聴衆を煽ります。
その後、自分がホロコースト否定論者と呼ばれたとして、彼女とその出版社を相手取り、名誉毀損訴訟を起こすのです。
訴えられた側に立証責任がある英国の司法制度の中でリップシュタットは”ホロコースト否定論”を崩すこととなり、彼女のために、英国人による大弁護団が組織され、アウシュビッツの現場調査に繰り出すなど、歴史の真実の追求と裁判が始まっていきます。
これ以上はネタバレになるので言いませんけれど、この映画を観て改めて考えたことは、
たった70数年前の出来事でさえ、しばらくすると「そんなことはなかった」という人々が現れるのだな、ということです。
従軍慰安婦の問題や、南京大虐殺のについても、同じように「そんなことはなかった」という人がいるように。
あたりまえのことですけれども、真実な歴史をありのまま完全な形で記載したり、保存することはできませんね。70年前といっても、写真や映像はあったのに、それでも「本当なら、証拠をだせ」と言う人、重箱の隅をつついて、定説となっている「歴史」を否定する人はいます。
結局リップシュタットがそのような否定論者との裁判で勝利できたのは、「彼らと同じ議論の土俵に乗らなかった」からでした。賢い選択だと思います。
この映画を観て改めて思わされたのは、「歴史」とはなんなのだろうということです。
人間は、過去のその時間をそのまま保存することも体験することもできないゆえに、限られた証拠をもとに、そこで起こったはずのストーリーを、想像するしかない。
歴史とは、結局そういうものなのだ、と、あらためて感じさせられた、いい作品でした