無条件の尊敬がもたらす、愛の奇跡
夫婦関係を考える時、「愛」についてはよく語られると思いますが、「尊敬」については、ほとんど考えられてこなかったのではないかと思います。
お互いに「愛し合って」いるのに、なぜか小さなことで喧嘩をしてしまったり、すれ違ってしまうことがあるでしょう。
そもそも、嫌いなのに一緒になったはずではないのです。愛し合っていたはずなのに、その愛情表現がすれ違ってしまって、傷つけあってしまうということがあるわけです。
問題は「愛がない」ことにあるのではなく、「無条件の」「尊敬」の表現がないところにあるのです。
「無条件の尊敬」なんて、聞いたこともないかもしれません。「尊敬」とは、「尊敬」に値する人じゃなければ、しないものという思いがあなたにもあるでしょう。
「尊敬」してほしいなら、尊敬できるようなことをしなさい、と思うでしょう。多くの人々にとって、「尊敬」とは「無条件」ではなく、「勝ち取るもの」になっているのです。
多くのばあい、妻は夫が「尊敬に値する」とは思っていません。
そして夫は「妻からの尊敬」を求めていますが、多くの場合、「妻からの侮辱」はあまりにもひどい、と思っています。
妻にも言い分があるでしょう。
「優しくない夫を、どうして尊敬できるの」
「尊敬なんてとんでもない。こんなに傷つけられているのに」
「わたしの望むように愛してくれたなら、尊敬できるかもしれない」
さて、これらの「条件」をクリアし続ける夫は、この世界にいるのでしょうか?
「無条件の尊敬」とはかくも難しいことなのです。そしてそれゆえに、この「無条件の尊敬」に絶大なる関係回復力が秘められているのです。
夫からの愛を引き出すために、「無条件の尊敬」以上の力はありません。なんでもいいから、夫を尊敬していることを妻が伝える時、夫は確実に変わり始めます。
もしそれでだめなら、諦めましょう。でも、だめもとでも、関係回復のために、やってみる価値があるのではないでしょうか。
「あなたって、すごいわね」
「尊敬しているわ」
この一言が、きっと愛の奇跡を引き起こすことでしょう。
夫婦関係がもつれる根本原因
夫婦関係がもつれるのは、男性と女性は必要が違うということに、気づいていないからなのです。
「愛」さえあれば、うまくいくというのは、幻想です。
逆をいえば、「愛」がないから、うまくいかないわけでもないのです。
そうではなく、互いの必要に対する「無知」が原因であったりします。
妻である女性は夫から「愛される」ことを求めます。
ところが、夫である男性は妻から愛されることより、「尊敬」されることを求めるのです。
男の子と女の子の育ちかたの違いを思い起こしてしましょう。
女の子は「かわいいね」と言われて育ちます。決して「かっこいいね」ではありませんね。
反対に男性は、小さいうちは「かわいいね」ですが、そのうち「かっこいいね」と言われると嬉しくなるものなのです。
大人の男性に「かわいいね」といって嬉しがるでしょうか?
「かわいいね」とはあなたを愛するという愛情表現であり、「かっこいいね」はあなたを尊敬するという表現です。
男性と女性は、育ち方からして、必要としている言葉が違うのです。
これが理解されていないので、妻は夫を尊敬する言葉をうまく使うことができず、
そして、尊敬されていないと感じた夫は、妻を愛する言葉をうまくつかうことができなくなって、
相手を責め合って、夫婦関係がもつれていくのです。
このことに気がついていなかったり、知っていても無視をしているので、夫婦関係がもつれるのです。
公立学校の画一的な教育システムが、発達障害児というレッテル貼りをしてしまうのでは?
発達障害という言葉は、少しネガティブな響きがありますね。
「障害」という言葉がそういう響きをもっているからでしょう。
しかし、「健常者」と「障害者」を分ける基準は何なのでしょう。
おそらく学校教育において、同じカリキュラムをこなしていけるかということが、その基準となるのではないでしょうか。
クラスの中で、「ちょっと変わった子」「落ち着きのない子」が、今はADHDという注意欠陥・多動性障害と診断されるようです。
親の育てかたが原因ではなく、脳の機能障害により脳機能の発達が未熟で、年相応のレベルに達していないと、理解されるようになり、それはそれで親が自分の子育てについて責めたり、他人から責められたりするようなことからは、解放されたことは良かったと思います。
一方で「障害」というと、その状態がずっと継続するようなイメージがもたれますが、
必ずしもそうではなく、様々な能力の成長のスピードが、アンバランスであることも「発達障害」といわれるわけです。
そのような様々な能力の発達速度のばらつきは、「障害」という言葉を使うほどなのかとおもうのです。
公立学校は、年齢で区分けして一斉に教育するシステム
なので子どたちの様々な能力の発達具合を、ある範囲内でおさえないと、授業ができないわけですね。
授業についてこれない子どもたち、「ちょっと変わった子ども」たちを、「障害」とするのは、なんだか規格品をつくる工場の発想のような気もするのです。
子どもたちに「障害」という言葉を使うことには、慎重であるべきだと、わたしは思うのですが、
どうおもわれますか
カウンセリングとかコーチングの理論だけ知っていてもだめなんだよ
職業柄、交流分析などのカウンセリング技法や、アファメーションなどのコーチング理論について学んできたけれども、
様々な人との出会いや関わりの中で、それらの技法や理論に助けられつつも、
やっぱり最後は自分自身の人格や霊性が、人との関わりの中で重要になってくるのだなと、実感しているんですね
そういう意味で、やはり自分にとって、
日々、聖書の言葉を読み、祈ることによって、
自分自身の心の平安とあるべき自分自身の姿を、取り戻し続けることが、
人と関わる上で大切な力となっているわけです。
この理論や技法をこえた、数値化できない人間の霊性に関して、
カウンセラーでもコーチでもいいのだけれど、
認識しているか、していないかということは、
決定的な差があると思うのです。
つまり、人間は理論や技法をただ伝えるロボットではなくて、
人格から人格へと影響を与えあっていく存在である、
ということなんですね。
以前、死にたいって言っていた彼から、今年もクリスマスカード
もう10年近く前に出会ったI君から、クリスマスカードとわたしの働きへの支援金が送られてきました。
ずっと電話で彼のカウンセリングをしてきたのですね。
最初の頃は「死にたい、死にたい」って、本当に危ない状態だったし、ご家族の協力もあったから、なんとか乗り越えられたけれども、今思えば結構大変でしたね。
家から一歩も出られなかったI君。
サッカーが好きで、大学ではポルトガル語を習得までしてたのだけどね。いろいろあって、強いうつ状態になっていた彼。
彼が好きなブラジルのサッカー選手には、クリスチャンがたくさんいるんですよね。
それで不思議に牧師のわたしと出会うことになって、それからの付き合い。
家から一歩も出れなかった彼と、電話で数え切れないほどカウンセリングをしてきて、だんだん彼の状態が良くなって、やがて、彼は結婚するんですよ。
もう、奇跡としかいえませんでしたね。
もちろん結婚生活こそ人間関係における最大のチャレンジ。
その後も夫婦のカウンセリングをさせてもらって、いくつもの壁を乗り越えてきました。
そんな彼ら夫婦から、今年も感謝のクリスマスカード。
関わらせていただいて、よかったなぁ。
つくづく思う一瞬ですね。
妻の肌がつるっつる
今朝、洗面所で顔を洗い、
濡れたままの顔(タオルで拭かないほうがいいのだそうだ)を、わたしに近づけてきて、
「ねえ、肌がきれいになったと思わない」と妻がいうのです。
そういわれて、じっとほっぺのあたりを見ると、確かにつるっつる
「そうだねぇ」といってあげると、うれしそうな顔 (^O^)。
どうも、最近毎日続けている、玄米スープの効果らしい。
「玄米スープ」は今はだいぶ知られるようになったけれども、
すでに数年前に、その作り方を習得して、ブログに書いたんだよね。
「玄米スープ」の検索結果 - 生きる喜び(Fujii牧師の独り言)
当時は、山形の酒田にいたから、玄米を手に入れるのも簡単だったしね。
若返りビタミンと言われるビタミンEが、非常に豊富に含まれている
玄米スープ
高いサプリなんかよりも、100倍いいですよ。これ。
旦那が奥さんのために、作ってあげたら、夫婦関係のビタミンにもなるしね。
エッセンシャル思考
エッセンシャル思考という本を読んだ。
エッセンシャルとは日本語にすれば「本質」ということ。
枝葉ではなく本質にこそ時間を注ぐことが、すくない労力でより良い成果を上げることになるという本。
よくある自己啓発本だけれども、具体的な事例が沢山あり、説得力のある本だった。
あれもこれもと、忙しくしてしまうことは、事務能力のある人ほど良く起こることなのだろう。
パソコンやスマートフォンが、その傾向を加速した。いつでもどこでも、繋がっているということは、大切なことに集中する時間持ちにくいということなのだと思う。
本を読むこと。集中して考えること。優先順位を大切にすること。
それが結局は、限られた人生の時間を有意義に生きることにつながるのだ。