公立学校の画一的な教育システムが、発達障害児というレッテル貼りをしてしまうのでは?
発達障害という言葉は、少しネガティブな響きがありますね。
「障害」という言葉がそういう響きをもっているからでしょう。
しかし、「健常者」と「障害者」を分ける基準は何なのでしょう。
おそらく学校教育において、同じカリキュラムをこなしていけるかということが、その基準となるのではないでしょうか。
クラスの中で、「ちょっと変わった子」「落ち着きのない子」が、今はADHDという注意欠陥・多動性障害と診断されるようです。
親の育てかたが原因ではなく、脳の機能障害により脳機能の発達が未熟で、年相応のレベルに達していないと、理解されるようになり、それはそれで親が自分の子育てについて責めたり、他人から責められたりするようなことからは、解放されたことは良かったと思います。
一方で「障害」というと、その状態がずっと継続するようなイメージがもたれますが、
必ずしもそうではなく、様々な能力の成長のスピードが、アンバランスであることも「発達障害」といわれるわけです。
そのような様々な能力の発達速度のばらつきは、「障害」という言葉を使うほどなのかとおもうのです。
公立学校は、年齢で区分けして一斉に教育するシステム
なので子どたちの様々な能力の発達具合を、ある範囲内でおさえないと、授業ができないわけですね。
授業についてこれない子どもたち、「ちょっと変わった子ども」たちを、「障害」とするのは、なんだか規格品をつくる工場の発想のような気もするのです。
子どもたちに「障害」という言葉を使うことには、慎重であるべきだと、わたしは思うのですが、
どうおもわれますか