すでに愛されているから大丈夫!! アラフィフ牧師の独り言

人間関係のことや、ものの考え方、マインドセットについて

公立学校の画一的な教育システムが、発達障害児というレッテル貼りをしてしまうのでは?

発達障害という言葉は、少しネガティブな響きがありますね。

 

「障害」という言葉がそういう響きをもっているからでしょう。

 

しかし、「健常者」と「障害者」を分ける基準は何なのでしょう。

 

おそらく学校教育において、同じカリキュラムをこなしていけるかということが、その基準となるのではないでしょうか。

 

クラスの中で、「ちょっと変わった子」「落ち着きのない子」が、今はADHDという注意欠陥・多動性障害と診断されるようです。

 

親の育てかたが原因ではなく、脳の機能障害により脳機能の発達が未熟で、年相応のレベルに達していないと、理解されるようになり、それはそれで親が自分の子育てについて責めたり、他人から責められたりするようなことからは、解放されたことは良かったと思います。

 

一方で「障害」というと、その状態がずっと継続するようなイメージがもたれますが、

 

必ずしもそうではなく、様々な能力の成長のスピードが、アンバランスであることも「発達障害」といわれるわけです。

 

そのような様々な能力の発達速度のばらつきは、「障害」という言葉を使うほどなのかとおもうのです。

 

 

 公立学校は、年齢で区分けして一斉に教育するシステム

 

なので子どたちの様々な能力の発達具合を、ある範囲内でおさえないと、授業ができないわけですね。

 

授業についてこれない子どもたち、「ちょっと変わった子ども」たちを、「障害」とするのは、なんだか規格品をつくる工場の発想のような気もするのです。

 

 

子どもたちに「障害」という言葉を使うことには、慎重であるべきだと、わたしは思うのですが、

 

 

どうおもわれますか