すでに愛されているから大丈夫!! アラフィフ牧師の独り言

人間関係のことや、ものの考え方、マインドセットについて

不登校という距離の取り方

最近よく考えるのは、不登校という課題。

中学の息子が学校に行かなくなったので、必然的に考えざるを得なくなった。

もともと、外交的なタイプではないので、学校に行っても友達がいないということもあったけれども、やはり、行かなくなったときには、ああ来る時が来たんだなという気持ちにはなった。

 

「学校に行かない」ということが、「しなければならないことをせず、怠けている」と捉えるとすれば、自分がそのように親に言われて育ってきたからだろう。

 

でも本来、勉強というものは楽しいことのはずなのだ。知らなかったことを知り、自分の世界が広がる体験なのだから。

息子は勉強が嫌いなわけではない。本はよく読むし、新聞も隅から隅まで読む。

でも、学校という特別な人間関係とシステムのなかで、テストの点数で比較評価されるような「勉強」のつまらなさに、正直にまっすぐ、「いかない」という反応をしているのだろう。

 

そもそも、学校という現場が、「我慢」して、テストのための暗記競争を強いられる高ストレスの現場ゆえに、いじめのようなことも起こっているんじゃないのか。

 

テスト勉強とは、思考ではない。自分の頭で考え、自分の意見を持つ訓練ではなく、きまっている答えを、ただテストの時まで覚えておくという、一時記憶の訓練にすぎない。

 

テストが終われば、安心して忘れてしまう。

 

なんでも、数字にして評価するから、こんなことになる。

カラオケさえ、今はなんでも点数だ。

点数で評価し、勝ち負けをはっきり決めないと、楽しめないのだ。

あほか。

 

そんな非人間的な愚かさに気づいた人は、

その世界にどっぷりと足を踏み込んだりせず、かしこく距離をとるだろう。

 

その一つのありようが、学校にいくのをやめるということなのだ。