不登校という距離の取り方
最近よく考えるのは、不登校という課題。
中学の息子が学校に行かなくなったので、必然的に考えざるを得なくなった。
もともと、外交的なタイプではないので、学校に行っても友達がいないということもあったけれども、やはり、行かなくなったときには、ああ来る時が来たんだなという気持ちにはなった。
「学校に行かない」ということが、「しなければならないことをせず、怠けている」と捉えるとすれば、自分がそのように親に言われて育ってきたからだろう。
でも本来、勉強というものは楽しいことのはずなのだ。知らなかったことを知り、自分の世界が広がる体験なのだから。
息子は勉強が嫌いなわけではない。本はよく読むし、新聞も隅から隅まで読む。
でも、学校という特別な人間関係とシステムのなかで、テストの点数で比較評価されるような「勉強」のつまらなさに、正直にまっすぐ、「いかない」という反応をしているのだろう。
そもそも、学校という現場が、「我慢」して、テストのための暗記競争を強いられる高ストレスの現場ゆえに、いじめのようなことも起こっているんじゃないのか。
テスト勉強とは、思考ではない。自分の頭で考え、自分の意見を持つ訓練ではなく、きまっている答えを、ただテストの時まで覚えておくという、一時記憶の訓練にすぎない。
テストが終われば、安心して忘れてしまう。
なんでも、数字にして評価するから、こんなことになる。
カラオケさえ、今はなんでも点数だ。
点数で評価し、勝ち負けをはっきり決めないと、楽しめないのだ。
あほか。
そんな非人間的な愚かさに気づいた人は、
その世界にどっぷりと足を踏み込んだりせず、かしこく距離をとるだろう。
その一つのありようが、学校にいくのをやめるということなのだ。